こんにちは、やっと100記事目投稿の樽タサクです。
その裏で保留記事もどんどん溜まっていますし、そちらの方が順調順調。
εε= κ( ` ▽´)κケケケ εε= κ( ` ▽´)κケケケ
前回の続きです。まだの方はこちら ⇓ からどうぞ。
他人の頭の中をの覗いたときに初めて、自分の頭をより客観的に把握できたりするもんです。
甥の頭の中での映像・感覚の映像化、そしてそれらを言語化で見えてくるモノから、私自身の脳内をより把握できるようになる。
甥にとっては、結構なハード・ワークでしたが。
 ̄ー ̄)ニヤリ
新しいことを学ぶときに、「種」がやってきてそれが自分の頭上に広がる天空の畑で育つという表現をした甥。
学校では「種」ではなく他のものが見えるらしい。その内容について書いていきます。
頭の中を可視化&言語化など、何かの参考になればいいかなと思っております。
学校では「種」はやってこない?!
甥に聞きました、「学校の授業とかでも、頭の中に種はやって来るの?」と。

学校では「種」は来ないよ。
学校ってそういう所って感じではないからね。
学校の授業では知識や新しい思考の元になる「種」はやって来ない。
甥にとってはこの「種」がやって来るのが一番楽しいはずなのに、それでも学校での生活に支障をきたしてはいません。
(見えないストレスで体調を崩しやすいのですが、それでも学校を楽しんでいるようです)
もう少し突っ込ん聞きました。「学校の先生ってどういう存在?どんな感じに見えるの?」と。

風というか、空気というか・・・そんな感じ。
(授業とかで)先生を見ていると、流れがあるんだなっていうのが見える。
先生の言葉でみんなが動いたりして、みんなで一緒に何かを作り上げたりするでしょ?
先生から吹く風の流れで色々動きが出る。
どうやら授業などで、先生が教える内容をクラスの子達がどの程度またはどう理解しているのか、というのを風の吹き抜け方や流れ方で甥は見える(感じる)。

先生が授業や話を進める上で、クラスの皆のどんな理解の仕方が到達点なのか、どういう流れだとスムーズにそこへ行けるのかというのを「風」の流れで見える(感じる)。
流れが滞ったりすると、先生とクラスの皆との間に何を置けば、その「風」の流れが良くなるのかが見える。
間に置く何かとは、言葉や態度などでのアプローチのことで、それらがワンポイントとなって「風」の流れが求められる方向へと流れていく。
甥が話した内容をもう少し詳しく書いていきます。
風の流れの捉えて、そして先読み
甥にとって学校は、教科を学ぶ場所ではなく、人の思考・感情がどういうものか、そしてそれらが複雑に合わさるとどういう動きになるかを観察し、何をすれば改善・改悪されるかを経験する場所。
自分の立ち位置、役割、周囲の現状把握をし、 集団の中で、自分がどう振舞えばその集団が上手く機能するか、という視点を持ちつつ学校生活を送る。
こういう設定(前提)でいることで、甥はフラストレーションを軽減しているし、結果的にそれもまた知的欲求を刺激して満たしているのかもしれません。
風を遮るモノとは、理解を妨げるモノとして捉えている
先生から流れてくる風を読むとき、甥の前にはそれを遮ったり、乱気流を発生させたりするモノが存在しないからそのままを受け取る(理解する)。
でも周囲を見ると、遮る何かによっておこる乱気流の為に、本来の流れとは全然違う方向へ向いてしまい、上手く理解できない状態になっていると分かる。
流れをそのまま感じられるように、本来の流れにもどす手段のようなものも分かる。そしてその手段となるものを配置していくという感覚がある。
人の思考・感情・感覚が「風の流れのように脳内で可視化」され、それを把握して対処するという態勢です。
それはかみ砕いた言葉・表現だったり、場を和ませる振る舞いだったり、その時の状況によってそれは変わります。
そいうことをすることが乱れた流れを元の状態に整えるということになる。

その場で応急処置することで、本来の方向の流れを周囲の人達(クラスメイト)も感じ取ることができ、たとえその瞬間だけだったとしても、安心感と一体感を得ることができる。
流れを遮るモノとは、個々人によって違うので
遮るモノとは、ある子にとっては理解力だったり、またある子にとってはその場での精神的なモノだったり、あるいは家庭的問題を含んでいたり、と様々。
しかし見えるからといって、遮る「何か」を独断で取り除く行為はしない。

原因は分かるけれど、何もかも面と向かって指摘するものじゃないと思っているよ。
誰だって触れられたくないモノってあるからね。
接していれば、「何が一番触れられたくない心の部分か」ってわかるよ。
俺と一対一で話していて、友達がその原因を直したいと思ったときだけ、それについての意見を言ったり提案したりする。
遮るモノのせいで乱気流が起き、大変なことになっているからといって、自分を犠牲にして盾になり相手をその乱気流から守るという行き過ぎた行為はしない。
どこまでが自分の領分なのかを甥は把握していて、その境界線は臨機応変に広がることもあるし、長期視点と短期視点でもその境界線は変動する。

助けなきゃいけないとき、助けない方がいいとき、色々あるよね。
出来るからやればいいと思って俺が勝手に何でもしちゃったら、逆に相手にとって迷惑になることだってあるしね。
結果的に先読みをしている状態になっている。
(そうなってしまうのは仕方がないね)
無意識にやっていたことをあえて言葉にして意識上にあげ、外での振る舞い方を含めた状況を安全な場所から再確認。(家庭内とかね)
できること、もしくはできてしまっていることを再確認し、これでいいのだと周囲の大人が受け入れて、甥本人の肯定をする。(間違ったことはそこで改善できる方向を一緒に探す)
思考スピードが速すぎるがゆえに不具合を起こしている部分を強化することも速い。
定期的に思考を確認をすることは大事です。
たとえトラブルなどの不具合はなくても、定期的にメンテナンスは必要です。歯医者さんが推奨しているのと同じ。(どこが?)
甥の普通と私のいびつさ、そして明るい闇落ち
子どもながらにそんなことに脳内労力を割いて、難儀なこったぁ・・・と思われるかもしれないけれど、本人にしたら至って普通のこと。
話す内容は10歳そこそこの子どものモノとは違いますが、甥自身の言葉と表現方法で話されたモノだから彼にとっては普通(ありのまま)。
ギフテッド特性がこういうカテゴリーでも発露しているだけです。
他人と同じだから普通ではなく、本人にとっての普通です。
甥と私の違いは、その脳内労力の割き方にいびつさがあるかないかの違い。
私の場合、あの年齢当時は自分を偽るというひと手間をかけなければ居場所を確保できなかったという不安と孤独がベースにあり、それがいびつさや不自然さとなっていた。
甥には安心感がベースにあるからいびつさがない。
こうやって自分以外の人の状況を観察して初めて、当時の自分自身を振り返って客観視して把握できる。
同じ感覚を持つ甥のお陰で、ネックになっていたいくつかの過去のポイントを把握し癒すことができ、こうやって書くことができたりする。ありがたいことです。
こんなことは今までも行ってきたけれど、何度も何度も同じことを繰り返す。その都度、自分の奥底を更に深く知り、実感し、納得し、安心感を得る。
闇を見るようで恐怖を感じるかもしれませんが、実際に自分の奥深い部分を見て納得すると表の自分の感覚は明るく軽くなっていきます。
これは何度やっても不思議で楽しい感覚です。
そうするうちに、「どうせ後々、明るく・軽くなるんでしょ」という安心感 を感じつつ闇落ちできるという矛盾的な離れ業ができる。

安全装備は改良し続けることをお忘れなく。
そして次回は
色んな風を読む(見る)甥ですが、その視点となる人物や対処する人物が脳内に数人いるようです。
私自身にも脳内に複数人いる感覚はありますが、子どもの頃はそういうことを周囲に言えることもなく、それら複数人を一人に統合しなければならないと躍起になって抑え込んでおりました。
その複数人の捉え方について甥と話をして、だいぶ気が楽になってきました。
次回はそれについて書いていきます。
それではまた ヾ(´∀`)