こんにちは、マナティ好きの樽タサクです。

尾びれがヘラのようになっているのがマナティ。たまらん。アイコンこっちにしようかと思う今日この頃。
今回の内容とは一切関係ありません。
(とっとと本題へ・・・)
脳内で起きていることを描写しようとするとき、行き詰まりを感じたりします。対比することで初めて表現する言葉が見つかるということもある。
甥と話して自分自身と対比することで、自分の内側(脳内)で起きていることをより掴みやすくなるかなと思っています。
今回は、甥の脳内映像と脳内で起こることの映像化、そしてそれらを言語化させるという高負荷をかけて聞き出した内容です。
11歳の子どもに容赦ないアラフィフ中年。
(負荷をかけられる方は嬉々として対応してくれます)
長くなりますので、数回に分けて書いていきます。
何かの参考になれば幸いです。それでは、始めます。
甥に聞いてみた、新しい知識はどうやって脳内に入って来る?
甥に聞いてみました。
「何か新しいことを知るとき、勉強するとき、頭にどうやって入って来る感覚?」
何か新しいことを知る時、または教えてくれる人がいるとき、甥の頭の中では「種」が沢山やってくるのだそうだ。

無数の種がどんどんやってくる感じ。
その種は自分の頭上の広大な天空の畑(庭・草原)に落ちて、成長していく。
成長したモノの根がどんだけ張っているかとか、実をつけているかを「普段と違う神のような自分」が眺めているんだよ。
全身を使って壮大な天空の畑について話し始めました。実際にはかなり詳しい描写をしてくれました。
神のような自分というと、なんだか頭パッカーンの様相を呈してきましたが、そこはあまり深刻に捉えないでください。
甥は一時期、洋の東西を問わず神々についての本に夢中になっていたので、その名残だと思います。
ちなみに、私タサクの場合、頭上に天空の畑はございません。
背後に宇宙空間のようなものが広がっている感じですし、「インターステラー」の5次元描写映像のような感覚、または「ルーシー」の最後のシーンのような感覚にも似ているかな。
甥と比べるとなんだか冷たい感じです。有機物と無機物のような違いのような感じかな。
あえて尋ねるからこそ、こういう「種・天空の畑・実」という描写になるのか、それともその瞬間にその映像が再生されて種が見えているかどうかは不明です。
私の場合は思考=映像という同時進行のときもあれば、そうでないときもある。そしてどちらか分からないときもある。
そこらへんの描写を上手くできるようになりたいものです。
ちなみに、ルーシーのような覚醒をしているわけではないですよ。
(書くまでもないか・・・でもああなりたい願望はある)
やって来た「種」は天空の畑でどうやって成長するのか
たくさんやって来た知識や思考の「種」はどうやって成長するか聞きました。

やってきた種は勝手に天空の畑に落ちて、勝手に根をはって、勝手に育っている。
ただ「普段と違う神のような中立の自分」がそれを眺めて、「こっちには何も育っていない、あっちは成長が速い、そっちは根が深く張っている」って観察しているだけ。
育っていない部分については、放っておいてもどうにもならいから、ちゃんと考える必要がある。
どうやったって完璧にはならない、だからそこだけは自分で考えて手を入れていくって感じ。
植えられた種が成長することで、自分の中にある思考が成長する感覚のようです。
植物の成長のように感じるのなら、収穫があるはず。
なので、収穫はどうなるか聞きました。

収穫は自分の意思ではできない。ただ「その時(テストや質問されたとき)」がきたら勝手にその実が落ちてくる(それが収穫)。
それは、なんだかヒラメキや直観のような感覚。
ちゃんと「種」として、自分に入って来たものだけれども、それを自分で植えて育てたという感覚はあまりないから、ヒラメキや直観のように感じるんだよね。
問題を解くとき、何かを解決しないといけないとき、それに関連する実がポンっと落ちてくる。だからその実を受け取って答える。
算数みたいな問題のときは「実がポンポンとでてくる」。
道しるべのようにポン、その実を受け取ると、また次の実がポン。それをどんどん辿って問題が解ける。
初めに「実(解法)」がポンっと出てきて、この「実」はどこの畑(分野)からやってきてどう育ってきたか(思考方法・過程)が後からやってくる感覚でもあるようです。
能動的なというより、受動的で自分の意思とは違う何かが働く感覚。
算数の応用問題の場合だと、最終的な答えがポンっと出るのではなく、その問題にまつわる解法が「実」としてやってくる。それも複数のバリエーションで。
このバリエーションが突飛なのに面白い解法として展開されて正解する。そして学校・塾の先生たちが驚く。

ある意味正しいとされる「実(解法)」と同時に、突然変異的な「実(解法)」も同時に出てくる。そしてその実もなかなかの美味(大人にはウケるという意味で)。
それが成績にちゃんと反映されるかというと、そういうわけではない。応用問題は解けるけれど、基礎問題は・・・甥の母はそこをイライラ・モヤモヤする(妹よ、がんばれ)。
何度注意しても、基礎問題を取りこぼす甥。他人と競争したり点数を取る事に執着しなさすぎるから、母親はいつもヤキモキする。
そういえば、先日も上記のことでこんなことを甥は言い出した。

俺は、考える問題に魅力を感じるタイプなのさ。
理由を長々と甥は言っていましたが、理路整然と語り続けるその態度に母親(タサク妹)はウンザリして、最後はぶちぎれて感情爆発してバトル勃発。
そして、タサクは対岸の火事を眺めながらこう思うのです、

健全健全。自分の想いを親にちゃんと伝えられるっていいんでないかいな?
それにしても、冷静と爆発感情の対比って見ててオモシロイのう。
話がそれてきました、元に戻ります。
暗記の多い科目では、何が起こるのか
算数などの場合は、種が成長しそこで培った思考の実がポンっと収穫されるけれど、暗記の多い科目ではどうなのか聞きました。

そんなときは「実」ではなくて、頭の右上に大きな分厚い本が出てくる。それをどんどんめくっていく。
そうしたらその答えまでの流れが書かれているから、それを読んで答えを書く。
覚えて思い出すというのではないんだ。
新しい知識として入って来るときは、算数だろうが社会だろうが関係なく「種」として感じるのだけれども、その「種」がそれぞれの畑で成長し収穫される段階になると「実(解法)」と「本」という違った形になって現れる。
この「実」と「本」の区別が上手くできないとき、甥は暗記の多い科目はからっきしダメで苦手にしていました。実のようなアイディアはどんどん湧いて出てくる(落ちてくる)のだけれども、支離滅裂な解答(回答)になってしまっていたようです。
自分の中でどう折り合いをつけたのかは後々聞くことにします。暗記科目に関して、甥が最後に言ったのは、

そうだ! 俺、脳内でカンニングしている!!
当然ですが、脳内の「本」は完璧ではありません。
無意識に取り入れている「種」なので、とんでもない所に植えられて(カテゴライズ)されていることも多々あります。誤植も多いってことです。
その誤植を人前で指摘されても全然平気で、周囲には笑いのタネとして提供できたというふうに甥は捉える。
自分が失敗(勘違い・不正解含め)したことがダメージにならない。
完璧主義がそこでは発動せず、笑いがとれたという喜びを得ながら誤植の部分を訂正していくという過程を辿るヘンテコな甥です。
外向けの完璧主義ではなく、内向けの「本」を完成させることに完璧主義の意識が向いているようです。
全てに完璧主義を発動させてしてしまうのではなく、どの方向に自分の完璧主義の性質が向かいやすいかを知ったり、または選択したりして、そこだけに完璧さを集中させることが大事なのかもしれない。
まだまだ続きます
今回この話題になったきっかけですが、
甥が突然、母親(タサク妹)に「俺の中に闘っている二人がいて・・・」と話し始めたこと。
息子に突然こんなこと言われた母親はそりゃあ心配になります。何をどう聞いて、どう受け止めればいいのか迷ってしまったようです。
それで妹は私に相談し、甥と私が「想像の過興奮Max」にして話すことになりました。
話している中で、甥に学校でも「種」はやってくるのかと聞きましたが、別の答えが返ってきました。
そして、天空の畑にいる「普段と違う神のような自分」についてもう少し詳しく聞きました。
これらのことから、甥の頭の中にいる数人の話しになっていきます。
それでは、次回 ⇓ に続きます。