後編:特性ゆえの欲求は満たされにくいけれど、田舎に住み続ける理由

後編:ギフテッド特性ゆえの欲求は満たされにくいけれど、田舎に住み続ける理由 ギフテッド大人と人間関係

久々更新したら、結構な長さになりました。

前編 ⇓ からの続きです。

前編:特性ゆえの欲求は満たされにくいけれど、田舎に住み続ける理由

 

置かれた環境とその捉え方、そして田舎に住み続ける理由をここ後編では書いていきます。

 

スポンサーリンク

知識の有無の重要度は相対的に変わってくるもの

どんなに知識があっても、その環境を生き抜く手段としてどれぐらい身近で機能するのか?で重要度や価値が変わって来る。

知識だけでは動かすことが出来ない何かがそこにあるから。

 

正面切って知識や理論で説得しても、誰も動かないし、状況も変わらない。

 

 

ある分野での知識がないからと言って、単純に「こいつらはバカだ!」とは断定できない。

 

個人の欲や価値観だけで突っ走ると、色んな形で圧力がかかってくる。

同調圧力、いやがらせ、噂、色々とね。

致命的な衝突は回避しつつ、問題を解決する道筋を見つける方法を見つけていくしかない。

こういう想いを根底に持って、田舎での生活しながら思考錯誤(試行錯誤)し続けています。

 

スポンサーリンク

それでも田舎に住む理由 

大したエピソードでもないものを前編記事で書いてきましたが、これは文章として笑って出せる範囲の話。

実際にはドロドロしたものや、根深い偏見などなど・・・うんざりすることが多いです。

それでも田舎に住む理由は何なのか?

 

田舎には特有のモノをどう捉えていくか

田舎には特有の心の開き方や、踏み込んでくる感覚、コミュニティを保つ術(本音と建て前の使いわけ)などがあります。

その中で人がどういう感情やバイアスで動き、そしてその結果がどうなっていくかという一連の流れや情報を得ていく。(なんだか機械的?)

 

得られる情報は、一人の7,80年の人生だけではなく、それ以前から続くその一族、またはコミュニティからの複雑な影響や歴史的な流れ含んでいます。

(それも自分の親戚以外の情報も多くもたらされる。ある意味コワイ。)

田舎の噂話

⇑ こんなエージェントが沢山。

 

学問としては成り立つものでもありませんが、情報を元に過去から現在への流れを観察・検証・考察などができたりする。

 

そしてそれを深く深くどんどん掘り下げていくと、時代や環境など様々な外的要因の影響が及ばない真理へと到達する(ような気がする)。

 

こうやって掘り下げて導き出した考察結果をベースにし、問題解決提案をする。

根強く残るバイアスを否定することなく提案するからこそ、周囲の人達は安心して私の考え方を採用してくれる。

 

一つの例として、こんな感じです⇓

 

これは周囲にとって、便利なアプリをダウンロードするようなお手軽さかもしれない。

地域のOSにちゃんと適合できるアプリなので安心。
(たまにバグはあるよ、だってタサクはにんげんだもの)

 

アプリ内部の構造(思考過程)やそれを作り上げたテマヒマ(七転八倒)はどうだっていいのです。

安心できる結果が 納得できる方法で 得られるので、受け入れてもらえる。

 

そういったことをしているので、

「勉強できる奴は、大人になったら人を敬う事を知らない嫌なやつになる」

「勉強ができる奴は、人としての心がなってない常識知らず」(田舎での常識)

と現在は言われずに済んでおります。

 

苦肉の策でベクトル方向を変えて思考した結果

自分にとって新たな拡大をもたらす情報を得られない代わりに、限定的な情報をどんどん掘り下げて追究して知的欲求を満たす。

満たされないゆえに苦肉の策でベクトル方向を変えて思考した結果が、何かしら周囲の人を益する。

本意ではないですが、こうやって自分の立ち位置を確保(確立)してきたのでしょう。

Win-Win の関係かな。

 

私には私の心地よさ、相手には相手の心地よさをそれぞれ感じられれば良いのであって、細部まで同じになる必要はありません。

 

それに田舎特有のゆったりとした時間の流れが、かえって私の思考を邪魔しないというメリットもあったのかも。

そう思えるまで40年以上かかりましたが。

タサク
タサク

否、単に環境に適応しすぎたのか、それとも諦めの境地か・・・

 

 

知識はあまりないけれど、コミュニティでうまく生きていく知恵が彼ら・彼女らにはある。

知識が邪魔をしないぶん、肌感覚で得た知恵でいろんなことを判断していたりする。

知識で武装していないぶん、心の動きも分かりやすい。(私にとっては)

あからさまな表現をしてくる姿を見たり、それを感じられるからこそ本質がより理解できたりする。

 

そして、それを鑑のようにして私は自分の本質の把握をしていく。

 

どこに自分がいたとしても、孤独を感じない場所などありません。

居場所が無いまたは見出せない、と必要以上に感じてしまうのは、自分自身がどういうものかを把握できないとき。

 

じゃあどうやって自分自身を把握するのか?

周囲の情報(人間や状況・環境)を観察し続け、考察・検証していくことも一つの手です。

タサク
タサク

ぶっちゃけ、そうするしか道はなかったんですけど・・・

判断ではなく徹底した観察・考察・検証。

ただひたすら観察・考察・検証。

 

他人からは理解されないという孤独は、自分が自分を理解することである程度落としどころを見出せるのではないかと思っています。

 

思考が混沌とした宇宙に漂っていることの多い私にとって、これが地上に降りてきて「私自身を生きること」への足掛かりになるのでしょう。

 

「生きる」の実地訓練&実践の場だな。

 

しつこいようですが、まとめると・・・

知識で武装せずに素直に感じてそのままを表現する人達がそこにいる。

武装などしないありのままの状態でも生きられる強さと、それを可能にする環境。

私自身にはないものを持つ彼ら・彼女らは、私個人の「生きる手本」のひとつ。

 

褒めすぎか?大袈裟か?

 

思考することで得られる喜びというより、「存在そのもののあるべき状態で生きる」という心地よさや安心感という体感を学ぶ場所。

 

タサク
タサク

体感を学ぶのに、そこに至るまでは思考をフル稼働させる。
なんだか矛盾しているけれど、これもまた自分。
思考体感思考体感の無限ループ学習。

 

 

肌感覚、つまり本能的に感じようとする部分を私は蔑ろにしてしまいがち。

私に欠けている部分を補ったり、学んだりする何かがここには在る。

 

これが、私が地方の田舎(地元)に住み続ける理由かもね。

 

タサク
タサク

かもね・・・暫定的理由か

 

最後に

前後編と2回にわたって田舎にいる理由を書いてきました。

書くきっかけになったのは、大都会からこちら(タサク居住地区)へ移住したTさんから言われた言葉でした。

 

Tさんはこの地域でトラブルもなく、むしろ同化して暮らしています。

それでも田舎特有のものは把握していて、Tさんは私に対して

「ここでなければ可能性はいくらでも広がって、別の選択ができただろうに・・・。」

としみじみと言いました。(実際はもっと突っ込んだ内容ですが)

 

私に哀愁漂うとか悲壮感があるとか、そのようなモノをTさんは感じてないようですが、私自身の異質さからくるフラストレーションを慮っての発言だったようです。

 

タサク
タサク

そもそも、私に哀愁や悲壮感なんてない。
心にブラックホールがあったりするけどね。
それはいつか別次元のホワイトホールへと繋がると…(妄想です)

 

人から指摘されたときに、より深く考察していくきっかけが生まれます。

そして根底にどういうものがあり、自分がどう感じてどう処理していったかが浮き彫りになる。

 

何かしら理解してもらえた安心感、そしてそこから掘り起こされる自分自身の本質の確認。

こういうことを繰り返しながら、心を安定させ、環境・境遇も含めて自分をまたひとつ受け入れていく。

 

環境・境遇がマイナスであってもそこから何かを見出すこと。

ただ単に、自分の過去をどこか肯定したいという欲がそこに絡んでいるだけなのかも。

そんなこんなも含めて、「自分の特性がこんなところにも発揮されるのね」と、もう一人の自分がその思考過程を認識していたりします。

 

タサク
タサク

俯瞰する自分をさらに俯瞰

 

何か学びが満たされたとき、ここを去る時がくるのでしょう。

ここでやれることはやり続けその時を待つ。それだけです。

 

そして好きなチームが勝ったら ⇓ こんな感じで叫んで発散もしながら、その 待ち時間 をお気楽極楽で過ごします。

 

それでは
また、次回 ヾ(´∀`)

タイトルとURLをコピーしました