こんにちは、2か月ぶりの樽タサクです。
活字渇望症から抜けつつあります。
発症中はTVや映画、YouTube などの映像モノにあまり気がいかなくなり、大好きな野球関連のチャンネルすら観なくなって、文字媒体記事のみで結果情報収集する。
そんな中、私の応援するチームがありえないほどの調子の良さで上位にあがり、ついに単独首位!
夢よ覚めないでくれ。
何度夢見たことかわかりません。。。#bs2021 #NPB #オリックス #バファローズ #バファローズポンタ #おりほー #単独首位 pic.twitter.com/qCKaGwISh3
— バファローズ☆ポンタ (@bs_ponta) June 21, 2021
そして私も脳内映像は相変わらず流れているので、調子はいい感じでございます。
前置きはこれぐらいにして、今回のお題へと行きます。
知的欲求が満たされにくい田舎に住んでる私ですが、なぜ今も住み続けているのか。
ライトなエピソードを盛り込みつつ書いていたら結構な長さになったので、前後編と記事を2回に分けていきます。
前編記事は、知識欲の低い田舎(地元)でよく交わされる会話など。
後編記事は、地元に住み続ける理由などについて。(思考過程も含めて)
それでは、前編を始めます。
全国的にみても、学力の低い地域の田舎に生まれ育ちました。
以前にも書いたことがありますが、私タサクは全国的にみても学力の低い地域の田舎で生まれ育ちました。
飛びぬけて学校の勉強ができると、親戚などからよく言われることは
「勉強できる奴は、大人になったら人を敬う事を知らない嫌なやつになる」
「勉強ができる奴は、人としての心がなってない常識知らずが多いんだよ」
などなど、もっと書こうと思えばいくらでもいけます。
とにかく勉強ができると、皮肉られることが多い。
田舎独特のコミュニティーの「和(輪?)」を乱す存在になるかもしれない・・・という脅威の対象のような扱いになることも。
まぁ今から30年ぐらい前のお話しです。
なんだか気持ちが落ちていきますねぇ。
(*´Д`)
今では情報が色々入ってきたり、都市部からの移住者も多くなってきたので変わってきました。
情報鎖国は解かれ、うちの田舎にもこのスポット ⇓ たくさんありまっせ。

色んな刺激に対して抵抗が少なくなったとはいえ、変わらないものは多いです。
「周囲より何か秀でているということを表現してはいけないし、それを醸し出すことさえ憚れる」という風潮はずっと根底にあり続けています。
田舎でよく交わされる会話
こんな田舎では、年配の人と以下のような会話が繰り広げられます。
つい先日のことです・・・。

タサクは、学校の先生になると思ったのにねぇ・・・。

学校嫌いなのに、学校の先生になるわけないじゃん!

大学行ったのに、学校嫌いなの?

勉強するのは好きだよ。
でも、学校は嫌い。
まじめに通ったのは大学だけだよ。
高校なんてよく休んでいたしね。

?????????
これ以上話が続かず、話題は変わっていきました。
年配の方々がこのような発言をするのには、ある田舎特有の信仰があるから。
大学 = 師範学校 そして、学校先生信仰
勉強ができる人に対しての皮肉は言いながら、先生になると皮肉の対象から外れてきます。
勉強ができる ⇒ 学校の先生になる と周囲からの信頼を得る。
勉強できる人は、師範学校へ行く・・・いつの時代だよ。
第二次世界大戦前後の話のようだ。

第二次世界大戦直後のように、1県1国立大学で駅弁大学 ⇒ 結局師範学校の進化版?
大学は教員免許取得するところというイメージ。
それが田舎の常識。(タサクの住んでいる田舎の昔の常識)
田舎で言われている「先生」とは小中高校の先生。
想像の範囲にある先生とは小中高校の先生であって、医者・弁護士・教授(大学教員など)では ない。
特に医者・弁護士は、人が弱っているときにお目にかかる存在で、直接金銭のやり取りがあることから、田舎では嫌がられることが少なからずあったようです。(現在変わりつつありますが)
学校の先生には直接金銭のやり取りがない分、清廉潔白に感じやすい。
だからこそでしょうが、一生を通して道徳的な責任を一手に引き受けるような圧力がかかる。
今現在、学校の先生が絶対的権威の存在というわけではありませんし、全国共通のイメージを持っているようです。(中年から下の世代は)
それでもまだまだ60代以上の世代には「学校先生信仰」の名残りがあったりします。
だから私に対して、
「あんたは学校の先生になぜならなかった?・・・もったいないことをしている!」
と責めるような口調で言ってくる。
少々賢いと自負のある「意識高い系田舎のおばさま」たちから何度も言われたセリフです。
「学校嫌いの勉強好き」は意味不明らしい
「学校の成績が良くなる理由」は、学校や先生のことが大好きで勉強を頑張ったからだ、というのが多かったりします。
ですから、興味の範囲が広く、知的欲求のために自ら学んでいくという態度は理解されにくいもの。
想像の範囲外というやつです。
先ほどの知り合いとの会話にもあったように、「学校嫌いの勉強好き」というものは相手を混乱させてしまうのです。
私が好きで勉強しているのを近場でよく見ていたはずの叔母たちでさえ、私が大学・大学院と進んで、研究漬けの生活をしているときには、
「タサクは大学の先生の中に好きな人がいて、そのために大学に入り浸って頑張っているんだよきっと!」
( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )
と噂していたそうな。
なんじゃそれ。
大学院って・・・
大学院に行くことが決まったとき、その話を小耳にはさんだ親戚と私の会話では・・・

タサク、春から東京に行くんでしょ?

東京へは行かないよ。
そんな話はどこから来た?

あれ?学習院に転校するんでしょ?
大学院の「院」という響きだけで学習院に行くものだと思ったらしい。
(そもそも転校って・・・)
そのとき私の頭の中では、地平線の向こうまで一面のお花畑が見えました。きれいだったなぁ。

(意味は・・・お察しください)
「大学院」についての説明はちゃんとしたのですが、あまり関心がないようで軽く流されてしまいました。
前編のさいごに
例として説明しやすい「勉強」という観点からのエピソードを書いてみました。
会話の行き違いや価値観の違いのようなものを感覚として受け取ってもらえればいいかな、と思っております。
タサクの属する家系やら地域がそういうレベルものだからだろ!と言われればそれまでですが・・・。
簡単にそこから抜けることもできるのに、どっぷりと浸かったまま生きています。
自分と関わりのあるモノが嫌ならばそこから離れる、問題から目をそらす、自分と関係ないものとみなして意識から排除するなど、色んな方法はあります。
しかし存在するのですから、それを否定するなんてできませんし、したくもない。
揺れ動く感情やしがらみ、自分のなかでの矛盾をかかえつつ、住み続けています。
ただひたすら受け身で耐え忍んで生活しているわけではなく・・・。
置かれた環境の捉え方や、思考過程などについては後編で。
(今回はおふざけ少な目です)