こんにちは、ヘビロテでアニメ「夏目友人帳」と時代劇ドラマ「鬼平犯科帳」を観ている樽タサクです。
何度観ても飽きない。
人間と妖、人間同士、役人と盗賊、盗賊同士・・・それぞれの心の動きや距離感としがらみ。
観るたびに色々と考えさせられます。
私、二代目中村吉右衛門ファン歴34年です。
34年・・・長っ Σ(・□・;)
とっとと本題へ。
心の安定を得るために、色んな距離感を手探りでとりながら生きてきました。
今回の記事、愛だの信頼だの尊重だのが出てきますが、いつものごとく軽く受け流しつつ読んでくださいませ。
お気楽極楽が一番です。
私も相手も疲れない距離感なのが一番いい
人との距離の取り方って色々ありますが、私は主にこの4つに絞って考えています。
●私も相手も疲れない距離感
●私は疲れるけれど、相手は疲れない距離感
●私も相手も疲れる距離感
●私は疲れないけれど、相手は疲れる距離感
「私も相手も疲れない距離感」をとれるようになって自分の疲弊度が下がり、楽になってきました。
後半の2つに関しては、お互いに尊重や思いやりがない、自我丸出しの状態。
(尊重と思いやりって同じか・・・)
疲れるのは歩み寄っているのではなく、攻撃しあっているようなもの。消耗が多い不毛地帯。
これはギフテッド云々関係なく、人としての在り方の基本的問題だわな。
相手を疲れさせない・・・不遜な感じがして悩む
私の中で大切にしていることは、とにかく相手を疲れさせないこと。
ギフテッド以外との交流が人生のなかでほとんどですから、相手を疲れさせないことが重要だと思っています。
そして、自分も疲れないようにする。
お互いが疲れないことで、お互いを受け入れやすくなる。
人に自分を受け入れてもらえる喜び、また自分が人を受け入れる喜び
それらの喜びが感じられると幸せになり、満たされます。
でも、「相手を疲れさせない」という表現が不遜で、自分の中にある「人としての正義や倫理観」など理想像に反しているようで受け入れがたく、葛藤を抱えてしっちゃかめっちゃかでした。

不遜なヤツ!
お前は何様ジャーーー!

ふざけすぎ。(実際はちゃんと真剣に悩んでおります)
脳内で七転八倒して、最終的に
「自分を含めた人の命、そして人生を尊重する」のだ!
という安易というか壮大というか、理解してんだかしてないんだか分からない結論をアンカーにして、荒れ狂う脳内嵐の中におりました。
アンカーは大事。

このように内面が混沌の嵐の中、生きやすくするためにとった当初の行動は相手の思考や感情の先読みでした。
これはブログの最初の頃の記事にも色々書きました。
しかし先読みだけをしすぎて疲れ果て、体に支障をきたす。
先読みだけでうまく立ち回れることは多いですが、心は疲れて体に不調がでてくる。
(でも、アンカーのお陰で破綻は免れる)
そこでとった次なる対応は、自分をなるべく無くし、ひたすら周囲を受け止める・受け入れる。
無くすといっても自我のようなものであって、自分を否定するというものでは ない です。
出来うる限り一体化させて感じると言えばいいのかもしれない。
※私のようなことをする必要はないですよ。タサクはこういうことをしているのね・・・という一個人の体験談として読み流してください。
なぜこのようなことをしたかというと、元来の私の性質みたいなものです。
性質に合っていたから、というそれだけのことです。
ここはギフテッド特性とは切り離して下さい。
本質的に修行僧や博愛主義者・宗教家のような性質、軍人に適したような性質、見えない世界に対する親和性とかそんなものが相まってできたことだと思っています。
こう書くと、なんだかスゴイ印象だわ・・・実際は虚弱体質のへなちょこです。
こういう本質を持ちながら、極端に共感することもできるけれども、それと真逆に極端に感情を切り離す冷徹なこともできる。
そしてこの状態を俯瞰して、自分自身にドン引きし、また脳内で七転八倒する。
あぁめんどくさいやっちゃなぁ。
( ̄  ̄ )ノ” ⌒* ポイッ!イラン
話がちょいとそれますが・・・
ギフテッド特性を知ることによって得られた安心感と、解放される喜びは大切なモノです。
しかし、それだけでは理解や解決できないものだって沢山あります。
ひとつに固執することなく、自分に対する先入観を取っ払うためにも色んなアプローチは必要。
先ほど書いた、
「本質的に修行僧や博愛主義者・宗教家のような性質、軍人に適したような性質、見えない世界に対する親和性」
なんていうのは、自分の中で感じていたものでもあり、精密占星術やら四柱推命など古くからあるデータ(占い)に基づいたものからのアプローチでもあります。
自分のことを博愛主義者というのもなんですが、洋の東西問わず伝統的な占いで同じ結果が出たりする。(どこまでも参考程度ですよ)
「愛」が私の人生のテーマですとかなんとか・・・「愛そのもの」ですとかなんとか・・・。
なんだか恥ずかしくて笑っちまう
。+゚(ノ∀`)。+゚
ちなみに私はゴリラと同じB型です。
話を元に戻します。
アンカーをバージョンアップして、ヒントを探し続ける
ひたすら受け止める、受け入れることをし、自分の思考と周囲の思考との違いを認識して、生きやすい方向性を見つけ出す。
そして、自分と相手の疲れない距離感を掴みながら、周囲の人達や自分を受け入れてきました。
(というより受け入れ作業は継続中)
そんなことをしながら歳を重ねつつ改良したアンカーである自分の思い(信念?)は、
「愛と尊厳そして信頼をベースに、相手も自分も疲れない距離感でいる!」
ご大層な言葉ならべてなんだか、⇓

この重さが極力でないように、あっさりと書こうと試みたりしていますが・・・。
(そもそもこの思いに見合った重厚さや成果なんて実際に出てるのか、甚だ疑問)
むしろ機械的な表現をしたりして、なんだか「こいつ共感性が欠如してないか?」という印象を与えてしまう。
人との距離感を探るがごとく、ブログとの距離感を探ったりし、それが歪さとなって現れて・・・だめだこりゃ。
現在はあっさりどころか、ふざけることが多くなってきて、「愛」なんぞこれっぽっちも感じませんが?ってな状態。
薄っぺらい奴じゃのう・・・と自分で思います。
ぺ~らっぺら
最後に
どこまで自分の内面を表現したらいいのか、出しては引いての繰り返しです。
私の内面の表現をしても圧迫感がなく、読んだ人の中にはしっかりと余白(思考の余裕)があり、その人自身の色んなモノの昇華(消化)の助けになることがベストだと思っています。
ここの匙加減って難しい。
押しつけになってないか、または押しつけになっていないけれど逃げてはいないか・・・脳内でまたまた七転八倒。
はっきりと言えるのは、言語化に長けた人たちのように、美しくて心に染み入るような表現は一切できませんということ。
言語化に特化したギフテッドの話を聴いたり、文章を読んでいると、脳内の映像が色鮮やかになって幸せな気分になり、想像や感覚の過興奮性が幸せな状態で発露する体験を味わえたりします(タサク主観)。
私の書いたものはフィーリングでざっくりと捉えてもらって、「なんか知らんけど楽になった感じがするわ~」って思ってもらえたら本望でございます。
最後に、鬼平犯科帳のエンディング曲で、まったりと。
時代劇のエンディングにこの曲選んだ方、素敵。
毎週月曜日 18:35~19:30 BSフジ・181で再放送中です。
日本の四季映像にラテンギターの音楽、鬼平犯科帳のエンディングだけ観るのもいいかも。
それでは
また、次回 ヾ(´∀`)