こんにちは、
「マクドナルドのハンバーガーが1個全部食べられないのはなぜだろうと考えこんでいた5歳の夏・・・の記憶が甦った」
樽タサクです。
(そりゃ小さいからさ、当時はお子様セットはなかったぞ)
実際の年齢と体格、意識上の年齢と体格のギャップが埋まらなくて、当時は戸惑うことがよくありましたな。
自己受容への過程で脳内惨劇でも、体調♪快調♪。
(理由は前回の記事でどうぞ)
付随して色んな記憶も甦る甦る、それも変な記憶(冒頭のような記憶)。
そんな数日が続いて後、やってきたモノについて書いていきます。
脳内惨劇の後にやってきたモノ
脳内惨劇は急に終わりを迎えました。
本当に急に終わりました。何も出てこなくなったのです。
拍子抜けです。
これで終わった (’∀’*)
と思ったのもつかの間、やってきたのは強烈な自己否定。
脳内惨劇がメルヘン調だと思えるぐらい、強烈・地獄のような自己否定。
なぜ脳内惨劇がメルヘンと表現できるかと言うと、脳内惨劇の脳内映像はカラー、総天然色(古い表現ですが)だったから。
脳内惨劇は自分の外で起きたことに対しての自分の感情の現れでした。
だから実際の記憶とリンクしてカラーで脳内で映像が再生されていたようです。
(視覚空間型認識をするタサクの特徴)
まぁ、脳内の映像では惨劇なので、赤い色が主にプシューっと・・・
ε=ε=ε=(艸゚Д゚*)嫌ァー
反対に、惨劇の後にやってきた自己否定は自分の内側へ、自己の存在そのものへ焦点をあてていくので闇です。
闇のなかでも黒の濃淡と質感のバリエーションはありました。
濃淡と質感・・・どう説明すればいいか迷いますなぁ。
冥府とか~、ケルベロスとか~、ロダンの地獄の門とか~。

こんな感じをイメージしてくれればいいかな~♪。
 ̄ー ̄)ニヤリ
(ハラグロ・タサク、読んでいる人を引きずり込む)
強烈な地獄を味わっていても
地獄のような自己否定の真っただ中でも、ノートへの書き出しは続けていました。

っていうか、それが自己受容の作業ですから当たり前ですが。
強烈な地獄の自己否定フェア絶賛開催中でも、体調はすこぶる良かったです。
前回の記事にも書きましたが、ノートへの書き出しでストレスと自己を分離したように、実生活をする自分と自己否定する自分を分離していたようです。
書きだしたノートを読み返すと、出てくる自己否定の言葉のスピードに手が追い付かなくてもはや日本語かどうかも分からない。
やはりここでも、ギフテッド特性の過興奮は発動しまくりでした。
自己否定が極まった先に見えてくる自●についてはどうかというと、これは以前書いた記事ギフテッドと希死念慮に書いた通り。
書きだしたノートのページが増えて厚みが出てくると、自分の中の自己否定とサディスティックさで妙な達成感を感じていました。
自己完結型SMのよう。
ここでもやはり、前々回の記事でも書いたように以下のことは起こっていました。
●ノートを目の前にして開いた時だけ、自己否定に関する脳内地獄映像が流れ、感情の嵐に飲み込まれる。
●ノートが目の前に無いと、脳内の自己否定地獄映像は再生されないし、感情の嵐は止む。
通常では、自己否定していると実生活でもマイナスなことが起こるといわれています。
しかし、ここでも分離が上手くいっていたのか実生活でのマイナスは現れなかった。
とにかく、どの種類の感情や状況になっても、他人(家族を含めた)にも影響がなかったことは良かった。
今日の最後に
自己受容の作業の過程で起こる、色々な内面の動きは理路整然としていませんし矛盾だらけ。
感情なんてそんなモノと自分に言い聞かせていました。
(実際は、吐き捨てるように自分に言ってました)
しょうがないですわ。
色んな矛盾も含めて、じ~こじゅよう~♪
まだまだ続くよ自己受容の作業です。
なっがい道のりじゃのぅ。
今回はここまで。
それでは、また ヾ(´∀`)